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ESPA:中田英寿 MEMORY
MESSAGE:Bravo!ESPA SCENE:THE LAST PASS FOR JAPAN. INTERVIEW:セルジオ越後氏インタビュー REPORT:中田英寿引退、100人アンケート MEMORY:中田英寿、29年の歩み ESPA EYE GOODS:中田英寿を知るための本 ESPA EYE ESSAY:2006年6月12日、カイザースラウンテルン PHOTOGRAPH:田原一孝さん
INDEX
中田英寿  
  記録と記憶 中田英寿、29年の歩み
     
     
 
1977年1月22日
山梨県甲府市に生まれる
1977年1月22日。中田英寿(以下、中田)は、父・邦彦さんと母・節子さんの間に、中田家の次男として誕生した。
力強い泣き声とともに生まれ出てきた中田は、スポーツ好きの邦彦さん譲りの立派な体格をしていたという。
幼い頃の中田は、邦彦さんとともに近所の空き地でサッカーや野球をしたり、2歳年上の兄・尚孝さん後について遊びにいくなど、元気のよい子どもだった。
だが、この頃から中田は体質的な理由で野菜を食べることができず、偏食になっていたという。
 
甲府駅前の武田信玄像
中田が生まれ育った山梨県甲府市。甲府駅前には、武田信玄像が鎮座している
photo:(c)ESPA/IACT SPORTS
text:(c)ESPA/IACT SPORTS
 
 
1983年
北新サッカースポーツ少年団に入団する
1983年、中田は自宅から程近い甲府市立北新小学校に入学した。この頃は、まだ特定のスポーツをやっていたわけではなかったが、その運動能力は高く、また成績も抜群だったという。
そんな中田が本格的にサッカーを始めたのは、小学3年生のときだった。
1985年の冬、中田は節子さんに「明日から北新サッカー少年団に入るから(FLASH/1997年12月16日号)」と突然告げ、そのまま尚孝さんと一緒に同チームに入団した。後に中田はこのときのことを「その時、たまたま誘われたのがサッカー部だっただけです(サンデー毎日/1997年9月14日号)」と語っており、いわば中田とサッカーの出合いは偶然的なものだったといえる。
中田が入団した北新サッカー少年団は、山梨県内でも強豪のチームだった。チームの監督だった竹田三郎さんは、当時の中田のことを「この団に入りたてのころは、体も小さくて細かったんですよ。ただ練習に対する態度、練習の理解力に関しては、もうこれは並の小学生ではとても真似できないほどの集中力を持っていました(中田英寿〜日本をフランスに導いた男〜/ラインブックス)」と語っている。また、北新サッカー少年団時代のチームメイトも「サッカーをするようになったヒデ(中田)は、どこに行くにもボールを肌身離さないっていう感じだったね。(中略)サッカーをはじめたころから、ヒデはサッカーのボールに、まるでおもちゃのような感じで、慣れ親しみはじめたんですよ(同書/編集部一部略)」と、当時のことを振り返っている。
偶然のような形で始めたサッカーだったが、中田はすぐさまその魅力にとりつかれていったのだった。
小学校時代のサッカーセンス
北新サッカースポーツ少年団の練習スケジュールは、土日の練習に加え、週に2回は早朝練習が行われるという厳しいものだった。だが、中田は練習をサボるようなことはなかった。例えば、練習日に土砂降りの雨が降っていても、グラウンドにはボールを蹴る中田の姿が必ずあったという。
そうした努力の甲斐もあり、当時から中田の実力は群を抜き、トラップやキックといった基本的な技術、スタミナなども小学生レベルではなかった。また、「小学校のうちから固定したポジションだと、それ以外の技術が身につかなくなる」という竹田監督の指導方針から、中田はスイーパーからフォワードまで、幅広くポジションを経験していった。
 
 
1989年
甲府市立甲府北中学校に入学する
1989年、中田は甲府市立甲府北中学校に入学した。
中学生になった中田は、もちろんサッカー部に入部した。この甲府北中は、サッカーが非常に盛んな学校で、運営資金を父兄でまかない、指導者には実業団で選手として活躍していた人物を招くなど、部活動というよりもクラブチームに近い形であった。そのため、練習方法もプロに近い形で行っていた。さらに公立の中学校でありながら頻繁に合宿や遠征を行うなど、恵まれた環境でサッカーに取り組むことができていた。
こうした環境の中で、中田はそのサッカーセンスに磨きをかけていき、入学して3ヵ月ほどで試合に出場するようになっていった。
また、小学生時代からの練習に対する取り組み姿勢は中学生になっても変わることはなかった。同級生や近所の人は、練習が終わった後に自宅の近くの公園でボールを蹴る中田の姿をよく目にしていたという。
中学2年生になった頃にはレギュラーに定着し、市大会で優勝するほどの強豪チームを中心となって牽引していた。そして、その活躍が認められ、同年には山梨県選抜、関東選抜に選ばれるなど、「中田英寿」という名前は県外にも轟くようになっていった。
15歳以下の日本代表に選ばれる
1991年、中田は関東選抜の一員として全日本中学選抜大会に出場した。そして、そのときのプレイが認められ、山梨県の選手としては唯一、15歳以下の日本代表に選ばれることになった。このときの代表チームは、1993年に日本で行われることが決定していた17歳以下の世界選手権に向けてチームを強化しなくてはいけなかったため、次代の日本代表にとって重要なチームという位置づけだった。
そんな代表チームに選ばれた当時の中田のことを、節子さんは「『次の合宿に呼ばれるかなあ』といつも心配していました(FLASH/1997年12月16日号)」と振り返っている。だが、代表チームの関係者からは「テクニシャンというよりはスピードが抜群で、サイドからの突破は光るものがある。これは外国の一流選手でも、なかなかできないようなプレースタイルだ(中田英寿〜日本をフランスに導いた男〜/ラインブックス)」と、かなりの高評価を得ていた。そしてその評価通り、高いレベルのサッカーを経験していった中田は、合宿や遠征から帰ってくると、目に見えてうまくなっていった。
だがその一方で、チームの核が抜けた格好になった甲府北中は、それまでのような成績を挙げられなかった。それでも、当時のチームメイトや顧問の先生は「せっかくつかんだチャンスだし、この代表メンバーが目前に迫ったU-17の世界大会の代表候補でもあったわけですから、その2年後の晴れ舞台をぜひ踏んでほしいと思い、チームも一丸となって中田の活躍を応援したんです(同書)」と、快く中田のことを送り出していったのだった。
高校進学へ
中学校の部活を引退して、進学先を決めるという時期になると、全国的に評価の高かった中田の下にはいくつもの高校から誘いが来ていた。それは、県内の強豪校はもちろんのこと、神奈川県の桐蔭学園など、県外の有名校からもあったという。
そうしたなかから中田が選んだのは、全国的にサッカーの名門として知られ、また、県内でも有数の進学校だった山梨県立韮崎高校だった。この韮崎高校を選んだ理由として中田は「小学校からサッカーをしてきたけど、同じチームで全国大会に出たことがない。一度は苦楽を共にしたチームメイトと全国大会に出て試合をしてみたい。それには韮崎高校が一番近道だと思う(同書)」と語っていたという。
中田のような、スポーツに優れた生徒が韮崎高校に入学する際、特別枠というものがある。この制度を用いると、一般入試よりも低いハードルで合格ができるのだが、中田は自らの力で入学することを選び、普通入試での受験に挑んだ。中田にとって同校は学区外の学校であり、しかも、中学時代には代表チームの遠征や合宿に参加するために、他の生徒よりも勉強に割ける時間は少なかった。それでも、持ち前の集中力を発揮して勉強に取り組んだ中田は、500点満点中450点以上を取り、見事に入学試験をパスしたのだった。
     
 
1992年〜
山梨県立韮崎高校に進学する
韮崎高校サッカー部は、国体、インターハイで優勝経験を持ち、全国高校サッカー選手権でも5度の準優勝を達成している名門校だった。
そのような伝統と実績を誇るチームに入っても、中田の存在は際立ったものだった。
1年生の秋頃にはレギュラーの座をつかんだ中田は、すでにチームの中心に君臨していた。それは、先輩や指導者に対しての態度においてよくあらわれている。例えば高校時代の先輩は、当時の中田の様子を「上のヤツとよく言い合いしてたなあ。ヒデ、試合中もあからさまに言うんだ。走っとけよ! それで先輩は先輩で、こんなん取れねえよ! なんて(Number/2004年4月号/編集部一部略)」と、話している。また、当時のコーチは「基本練習をやってると、先生、何でこんな練習するんですか、基礎練習は個人でやればいいじゃないですか、それより例えば3対3のグループ練習なんかをって(同誌)」と、練習方法に関して、臆することなく自分の意見を口に出していた中田の姿を振り返っている。
全国レベルの実力を持った運動部のなかで、このような中田の態度は、ともすると「1年生のくせに生意気だ」などと言われてもおかしくないところである。だが、その主張は的を射たものであり、監督やチームメイトもしっかりと納得をしていた。
もともと実力のあった選手たちだけに、中田の理想とするサッカーが自分たちを強くするということにすぐに気づき、チームの力はめきめきと上がっていった。
そして1993年。中田を中心とした韮崎高校は、強烈な攻撃力を武器に全国高校サッカー選手権の山梨県予選を勝ち抜き、全国大会出場を果たす。だが、翌1994年1月に行われた第72回全国高校サッカー選手権では、2回戦で前橋育英高校(群馬)に敗れ、国立の芝を踏むことはできなかった。
 
中田が3年間通った山梨県立韮崎高等学校
中田が3年間通った山梨県立韮崎高等学校。サッカー部をはじめとした運動部はもちろん、進学校としても名高い
photo:(c)ESPA/IACT SPORTS
text:(c)ESPA/IACT SPORTS
中田が練習に励んだサッカー部のグラウンド
中田が練習に励んだサッカー部のグラウンド
photo:(c)ESPA/IACT SPORTS
text:(c)ESPA/IACT SPORTS
元・韮崎高校サッカー部監督 田原一孝さんのインタビュー
 
 
日本代表での活躍
中学時代に15歳以下の日本代表に選ばれた中田は、その後も代表チームに召集され続けていた。
1992年5月にはアジア・ユース選手権(17歳以下)に出場している。高校2年生となった1993年8月には、日本で開催されたU-17世界選手権の日本代表にも選出された。このときの代表チームは、中田をはじめ、松田直樹(現・横浜F・マリノス)、宮本恒靖(現・ガンバ大阪)、戸田和幸(現・サンフレッチェ広島)など、のちにA代表に選出されることになる選手たちを中心としていた。ガーナ、イタリア、メキシコなどの強豪国と同組になったグループリーグを1勝1敗1分けで突破。準々決勝では、この大会で優勝することになるナイジェリアに敗れたが、中田は1得点を決める活躍をしている。
中田自身は、この大会のことを「予選リーグを突破して、ベスト8入りして、優勝したナイジェリアといい勝負ができた。これで、自分が世界の中でどれくらいの存在なのかが、ある程度わかったし、自信もつきましたね(中田英寿〜日本をフランスに導いた男〜/ラインブックス/編集部一部略)」と振り返り、日本の監督を務めていた小嶺忠敏監督(現・長崎県立国見高校サッカー部総監督)も、中田のことを「とにかく頼りになる男というか、どんなに相手が強くても失敗を恐れずにどんどんいくという積極性は際立っていました(同書/編集部一部略)」と、その才能を認める言葉を残している。1994年9月には、U-18日本代表の一員としてアジアユース選手権に出場。すでにプロに在籍していた選手もいたこの代表チームでも、中田はレギュラーとしてチームを引っ張っていった。そして、予選リーグ第2戦のクウェート戦、準決勝のイラク戦ではMVPに選ばれるなどの活躍で、日本の21年ぶりの準優勝に大きく貢献。1995年にカタールで行われるワールドユース選手権への切符をつかんだのだった。
このように、早くから海外の強豪国と渡り合ってきた中田の目は、いつしか世界に向けられるようになっていた。それは、サッカーに対する姿勢はもちろんのこと、イタリア語や英語の勉強を始めるなど、「夢」というよりは現実的な「目標」ということができるほどのものだった。
高校卒業、ベルマーレに入団する
アジアユース選手権でまた一回り成長を遂げた中田は韮崎に戻り、高校生活の最後を飾るべく、全国高校サッカー選手権の山梨県予選に出場した。この大会で、同年代の中でトップクラスの選手となった中田を中心とした韮崎高校は優勝候補の大本命に推されていた。事実、難なく決勝戦まで勝ち進む。だが、帝京第三高校との決勝では、PK戦の末に敗れてしまい、惜しくも全国への切符を手にすることはできなかった。
こうして、中田の高校サッカーは幕を閉じることとなった。
高校、ユース日本代表で活躍を続けてきた中田のもとには、Jリーグクラブ全12チーム(当時)中11チームからオファーが届いた。この高い評価にも中田は舞い上がることはなく、すべてのクラブを見学しながら進路を決めていった。そのなかから、中田は鹿島アントラーズ、横浜フリューゲルス、ベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)、横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)の4チームに絞り込む。
中田はそれらのチームの練習に参加していったのだが、そのときの中田の考え方を、当時の韮崎高校の監督は「高校生の考え方じゃないよ(Number/2004年4月号)」と語っている。それは、「(中田は)1チームにつき3日参加したいって言うんだ。(中略)なんで3日間なんだって聞くと、1日目の練習が2日目にどう生かされて、3日目にっていう過程を知りたいんです、だって(同誌/編集部一部略)」という、中田の計画的な考え方に対しての驚きから出た言葉だった。
そのように各チームを吟味した上で、中田はベルマーレに入団することとなった。同チームに入団する決め手となったのは、自分を即戦力として必要としていること、体育会系ではないベルマーレというチームの気風、そして、海外移籍を視野に入れた留学を認めてくれたことだった。
 
 
1995年
Jリーグデビューを果たす
中田のJリーグデビューは、1995年3月25日、サントリーシリーズ第3節のジェフ市原(現・ジェフ千葉)との試合だった。開幕から2連敗を喫し、この試合も前半で2点のリードを許していたベルマーレは、後半から中田を投入し、攻撃的な布陣で逆転を狙いに行く。すると、後半開始直後に1点を返し、中盤から終盤にかけて一気に逆転に成功する。得点にこそ絡まなかったものの、中田はその豊富な運動量と一発で状況を打開しうるパスで高い評価を得た。
ベルマーレのシーズン初勝利と自身のプロ初勝利を飾ったこの日から、中田の長いプロ生活はスタートを切ったのだった。
デビューから1ヵ月弱経った5月2日の第13節鹿島アントラーズ戦では、前半30分過ぎにゴールから25mほどの距離からのシュートを放ち、J初ゴールを決めている。
当時のベルマーレは、1994年にJFLからJリーグに昇格したばかりだったが、1994-1995年の天皇杯を制するなど、新進気鋭のチームだった。そうした若いチームということもあり、中田がその中心選手になるにはそう長い時間はかからなかった。それは、高校時代のように、作戦に関して監督、コーチ陣に自らの考えを進言したり、先輩プレーヤーに対しての堂々とした指示ぶりなどにも表れていた。当時のチームの中心選手だった元ブラジル代表のベッチーニョなどは、中田について「彼はボールを受けた瞬間に、各選手のポジションを把握している。そういう才能は日本人に最も欠けてるところなんで、ボクはスゴい18歳が出てきたなっておもってるんだ(Number/1995年8月号)」と語っているほどだった。そしてこの年、中田はリーグ戦26試合に出場し、8得点を挙げ、高卒ルーキーとしては上々の活躍を見せた。
また、12月には1994-1995年の天皇杯優勝チームとしてアジアウィナーズカップに出場。そして、決勝のアル・タラバ(イラク)戦では優勝を手繰り寄せる決勝ゴールを決め、チームに史上初のアジアタイトルをもたらしている。
ワールドユースに出場
この年の4月、日本は16年ぶりにワールドユースに出場した。前年のアジアユースで、ワールドユース出場権獲得に大きく貢献した中田は、もちろんこの大会にも日本代表に選ばれ、1993年のU-17世界選手権以来、中田にとっては2度目の世界大会を戦うことになった。
チリ、スペイン、ブルンジと同組になったグループリーグでは、チリ、スペインとの試合でゴールを決めるなど、3試合で2得点を挙げる活躍で、史上初のグループリーグ突破に大きく貢献。
ベスト8では優勝候補の一角にも挙げられていたブラジルと対戦。この試合では、日本は先制点を決めながら惜しくも逆転負けを喫してしまう。だが、大会関係者の中田の評判は高く、ブラジル代表のジャイロ・レアル監督からは「15番をつけている中田はブラジルでも通用する。むしろつれて帰りたい選手だ(中田英寿〜日本をフランスに導いた男〜/ラインブックス)」と、最高の賛辞を送られていたほどだった。
     
 
1996年
アトランタオリンピックに出場
1996年1月、中田はイタリア・トリノに向かった。ベルマーレ入団の条件だった海外留学のためだった。留学先はセリエAの強豪ユヴェントス。トップチームではなくユースチームでの練習参加だったが、中田は実力の違いを見せつけた。そのプレイぶりは、同行したベルマーレの関係者が「このままユヴェントスに獲られてしまうんじゃないかと心配になって、『どんな書類を出されても絶対サインをするな』と釘を刺したくらい(Sportiva/2006年6月29日臨時増刊号)」と語るほどだったという。
イタリアから帰国後の3月、今度はアトランタオリンピック出場を賭けたアジア最終予選に出場。日本の28年ぶりのオリンピック出場に貢献した。
そして同年7月、オリンピック本選の代表にも選ばれることとなった。当時中田は19歳。オリンピックは23歳以下の大会であるから、U-17世界選手権、20歳以下の大会であるワールドユースに続いて、飛び級での選出だった。
予選グループで日本は、サッカー大国のブラジル、アフリカの強豪ナイジェリア、ヨーロッパの古豪ハンガリーと同組に入り、グループリーグ突破は難しいというのが大方の予想だった。
事実、ワールドクラスの選手を多く揃えたブラジルとの一戦では、「マイアミの奇跡」といわれることになる世紀の番狂わせを演じて1対0で勝利したが、続くナイジェリア戦では0対2の完敗。最終戦でハンガリーに3対2で勝利したものの、得失点差でブラジルとナイジェリアに及ばず、グループリーグ敗退となった。
中田は第1戦、第2戦には出場したが、最終戦には出場しなかった。ブラジルを破った後のナイジェリア戦。日本はアフリカ選手特有の身体能力に圧倒されていた。だが、U-17世界選手権でナイジェリアと戦った経験を持っていた中田からすると、そのとき程ナイジェリアの選手たちを脅威には感じなかった。そのため、守備的な布陣に異を唱え、守備陣にも攻撃参加を要求したのだった。だが、その中田の考えは周囲との軋轢を生んでしまい、最終戦ではスタメンを外れることになってしまった。
このオリンピックは、これまで多くの世界大会に出場してきた中田のような若い選手と、海外の強豪との試合を経験してこなかった年長者たちとの意識の違いが表れた大会となってしまった。
 
前列右から2番目が中田
チーム最年少でオリンピック代表に選ばれた。前列右から2番目が中田
photo:(c)AP/WWP
text:(c)ESPA/IACT SPORTS
驚異的な身体能力を持つアフリカ選手を相手に、中田は孤軍奮闘をした
グループリーグ第2戦のナイジェリア戦。驚異的な身体能力を持つアフリカ選手を相手に、中田は孤軍奮闘をした
photo:(c)AP/WWP
text:(c)ESPA/IACT SPORTS
     
 
1997年
フランスW杯アジア最終予選に出場
1997年5月21日。2002年日韓ワールドカップの共催を記念して、日本対韓国の親善試合が行われることになった。そしてこの試合で、これまで各世代の世界大会に出場し活躍を続けてきた中田がA代表デビューを果たした。試合は、韓国に先制を許した日本が終了間際にPKで追いつくというものだったが、中田は持ち前のキラーパスや鋭いドリブルで、新しい司令塔誕生を日本中に知らしめた。この日韓戦で代表に定着した中田は、6月のフランスワールドカップアジア一次予選日本ラウンドにも出場。そして、マカオ戦で日本代表史上最年少でゴールを決めるなど、3試合に出場して3得点を記録した。
そして同年9月。中田はフランスワールドカップアジア最終予選に臨む代表メンバーのひとりに名を連ね、日本初のワールドカップ出場を賭けて戦うことになった。
初戦のウズベキスタン戦では中田の1ゴールを含む6得点を挙げて大勝したものの、その後の日本は苦しんだ。2戦目のUAE戦ではスコアレスドロー、3戦目の宿敵韓国との試合では逆転負けを喫する。4戦目、格下と目されていたカザフスタンに引き分けたところで代表を率いていた加茂周監督は更迭。コーチを務めていた岡田武史が急遽監督に就任した。5戦目、6戦目も引き分けに終わったが、7戦目のアウェーでの韓国戦では2対0で完勝。これで勢いを取り戻した日本は、最終戦でカザフスタンに5対1で圧勝し、辛くも第三代表決定戦に進むこととなった。
1997年11月16日、マレーシア・ジョホールバルで、日本対イランのアジア第三代表決定戦が行われた。
これまで全ての試合に出場してきた中田はこの試合も先発出場を果たす。前半39分には中山雅史(ジュビロ磐田)の先制点を演出し、イランに逆転を許した後の後半30分には、城彰二(現・横浜FC)の同点弾をアシストする。試合は2対2のまま延長戦に突入し、延長終了間際、日本中に歓喜の瞬間が訪れた。敵陣でボールを受け、自らドリブルでゴール前に突進し、ミドルシュートを放つ。それをイランのGKが弾く。そのこぼれ球を、途中出場の岡野雅行(浦和レッズ)がスライディングをしながらゴールに蹴りこんだ。
「ドーハの悲劇」でワールドカップ初出場を逃してから4年。日本中のサッカー関係者、ファンが待ち望んだ瞬間だった。だが中田は、「ワールドカップも盛り上がったんで、こんどはJリーグをよろしくお願いします(中田語録/文藝春秋)」とコメントするなど、やはり冷静だった。もちろん、大きな目標を達成した嬉しさはあったが、狂喜乱舞するようなことはなく、淡々と次を見据えていたのだった。
 
弱冠20歳にして、W杯出場を目指すA代表の中心選手としてチームを牽引した
弱冠20歳にして、W杯出場を目指すA代表の中心選手としてチームを牽引した
photo:(c)AP/WWP
text:(c)ESPA/IACT SPORTS
中田は日本の3得点全てに絡む活躍で、日本のW杯出場の夢を叶えた
イランとのアジア第三代表決定戦。中田は日本の3得点全てに絡む活躍で、W杯出場の夢を叶えた
photo:(c)AP/WWP
text:(c)ESPA/IACT SPORTS
     
 
世界選抜の一員に選ばれる
日本が初のワールドカップ出場を決めてから1ヵ月も経たない1997年12月4日。中田はフランス・マルセイユにいた。マルセイユでフランスワールドカップの組み合わせ抽選会が行われたこの日、その抽選会に先立って行われた「ワールドカップ組み合わせ抽選会記念試合」の世界選抜対欧州選抜に、世界選抜の一員として出場するためだった。
エキシビジョンとはいえ、集まったのは世界のトッププレイヤーばかり。先発で出場した中田は、風邪をひいていたためにコンディションは万全には程遠い状態であったが、徐々に得意のパスでチャンスを作り始めていった。後半途中からは、ブラジルのロナウド(現・レアル・マドリード)に代わってキャプテンマークを着け、フル出場を果たしたのだった。だが中田はこの試合を「みんなウマいと思ってたから、一生懸命やれると思ってたし、もっと楽しいものかとおもってた(週刊朝日/1998年1月2日、9日合併号)」と振り返っているように、緊張するというよりもむしろ真剣勝負ではなかったことに残念がっていた。
 
このエキシビジョンではジダン、ロナウドら世界的な名選手と競演した
このエキシビジョンではジダン、ロナウドら世界的な名選手と競演した
photo:(c)AP/WWP
text:(c)ESPA/IACT SPORTS
     
 
1998年
フランスW杯に出場、ペルージャに移籍
1998年、日本にとっては初めてのワールドカップイヤーが訪れた。
この年の5月に史上最年少でアジア年間最優秀選手賞を受賞した中田は、誰もが認める日本最高の選手として、ワールドカップに臨むことになった。
6月14日、フランスワールドカップグループ予選日本対アルゼンチンのピッチに立った中田の髪の毛は、金髪に染められていた。それは、ひとりでも多くの海外スカウトの目に留まるための策であり、高校時代から意識し始めた海外でのプレイを、はっきりと視野に入れたという考えの表れでもあった。
長く苦しい道のりを乗り越えて出場を果たしたフランスワールドカップは、アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカの前に3戦全敗に終わり、あっけなくその幕を閉じてしまった。
それでも、中田の思惑通り、そのプレイは海外のメディアから高い評価を受け、多くのヨーロッパのクラブが中田に触手を伸ばし始めることになった。
中田に興味を示したのは、スペインの名門・バルセロナやセリエAのボローニャなど、20チーム近くにまで上ったといわれている。そうした中から中田が選んだのは、この年にセリエAに昇格したばかりのACペルージャというチームであった。
7月22日、千葉県成田市内のホテルで記者会見を行った中田は、「僕、中田英寿は、イタリアのペルージャに移籍することで合意しました。応援してくださっているファンの方々には、直接会ってご挨拶できず、申し訳なく思いますが、その分、向こうで結果を残せるように頑張ればいいと思います(当時報道)」と、多くの報道陣の前で、イタリアでの活躍を誓ったのだった。
1994年にジェノアでプレイした三浦和良(現・横浜FC)以来、2人目の日本人セリエA選手が誕生した。
 
記念すべき日本のW杯初戦に、中田は髪の毛を金髪に染め上げて臨んだ。前列左が中田
記念すべき日本のW杯初戦に、中田は髪の毛を金髪に染め上げて臨んだ。前列左が中田
photo:(c)AP/WWP
text:(c)ESPA/IACT SPORTS
クロアチア戦でも決定的なパスを供給する中田英寿
クロアチア戦でも決定的なパスを供給するが、得点にはいたらず。結局中田にとって初めてのW杯は3戦全敗で幕を閉じた
photo:(c)AP/WWP
text:(c)ESPA/IACT SPORTS
     
 
デビュー戦で衝撃の2ゴールを挙げる
「海外のクラブでプレイする」という、高校時代からのひとつの目標を達成した中田だったが、これがもうひとつのスタートでもあった。
高校3年生の頃からイタリア語の勉強を始め、ベルマーレに入団してからも家庭教師をつけていたため、言葉の壁はそう厚くはなかった。始めのうちは中田の実力に疑問符をつけていた地元メディアやチームメイトたちも、練習を重ねていくうちに、その才能を絶賛するようになっていった。
そして、1998年9月13日、中田はセリエA1998-1999シーズン開幕戦のピッチに、スターティングメンバーのひとりとして立っていた。開幕戦の相手は、ジダンやデル・ピエロなど、数多くのスター選手を揃えた強豪ユヴェントス。下馬評では圧倒的に不利だった。事実、前半だけで0対3。多くの者が「中田のイタリアデビューはほろ苦いものとなる」と考えた。だが、その考えを嘲笑うかのように、中田は快挙をやってのけた。後半7分にドリブル突破からシュートを放ち、セリエA初ゴールを決める。さらに後半14分にはコーナーキックのこぼれ球をボレーでゴールネットに突き刺さしたのだった。試合は3対4で敗れたものの、三浦和良が1シーズンで1ゴールしかこじ開けられなかったゴールを、中田はたった59分間で2度も破ったのである。
この開幕戦でペルージャの司令塔として誰からも認められる存在となった中田は、このシーズン33試合に出場し、10得点4アシストを記録。チームのセリエA残留に大きく貢献した。
 
セリエAデビュー戦で2ゴールを挙げ、イタリア全土にその名をとどろかせた中田英寿
セリエAデビュー戦で2ゴールを挙げ、イタリア全土にその名をとどろかせた
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text:(c)ESPA/IACT SPORTS
 
 
シドニーオリンピック最終予選に出場
セリエAでの最初のシーズンを十分過ぎる活躍で終えた中田は、2年連続でアジア年間最優秀選手賞を受賞。アジア最高の選手として認められた。
1999年の10月には、シドニーオリンピック、アジア最終予選を戦う日本代表に合流することになった。
1996年にアトランタオリンピックに出場した中田にとっては、2度目のオリンピック予選だった。チーム最年少だったアトランタの時とは違い、今度は自らがチームを引っ張る立場となったこの予選だったが、イタリアで培ってきた経験を余すことなく周囲に伝え、2大会連続のオリンピック出場に大きく貢献したのだった。
     
 
2000年
ローマに移籍
中田は常々、「いずれは優勝が狙えるビッグチームに移籍したい」と語っていた。そして、そのチャンスは意外に早く訪れた。
ペルージャで2年目のシーズンを戦っていた2000年1月13日、2度のスクデット(イタリア語で「小さな盾」という意味で、セリエA優勝を表す)獲得の実績を誇る名門・ASローマへの移籍を発表したのだった。この移籍は、1990年代にACミランの黄金時代を築いたファビオ・カペッロ監督(当時)が獲得を熱望したために実現したものだった。
移籍金は300億リラ(約17億円/推定)という破格の値段からも、ローマの中田に対する期待が大きさが表れていた。
 
セリエAの古豪・ローマに移籍。チームの駒となり、ビッグクラブでもその持ち味を発揮していった
セリエAの名門・ローマに移籍。チームの駒となり、ビッグクラブでもその持ち味を発揮していった
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text:(c)ESPA/IACT SPORTS
     
 
シドニーオリンピックに出場
2000年9月、中田は2度目のオリンピックに出場した。
1999年にワールドユースで決勝進出を果たした小野伸二(現・浦和レッズ)、稲本潤一(現・ウェスト・ブロムウィッチ)など、いわゆる「黄金世代」が代表に名を連ねた日本には、1968年のメキシコオリンピック以来の好成績が期待されていた。中田にとっても、グループリーグで敗退したアトランタオリンピックの雪辱を果たすために、どうしてもメダルを獲得したい大会だった。
グループリーグではブラジルに敗れたものの、南アフリカ、スロバキアには勝利し、2位で決勝トーナメント進出を果たす。
だが準々決勝のアメリカ戦。日本は後半終了間際まで2対1でリードしていたものの、ロスタイムにPKを与えてしまい同点とされる。延長戦でも決着はつかず、勝負の行方はPK戦にもつれ込む。だが、4番手として登場した中田のキックがゴールポストに弾かれ、日本代表のシドニーオリンピックは幕を閉じることになってしまった。
PKを外した中田は、それまでの貢献度の大きさから、批判の矢面に立たされるようなことはなかった。だが、U-17世界選手権、ワールドユースに続き、世界大会でまたもやベスト8の壁に阻まれるという悔しい思いでローマに帰ることになってしまった。
 
中田にとって2度目のオリンピック
中田にとって2度目のオリンピック。持ち前のリーダーシップを発揮し、チームをベスト8に導いた
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スクデットを獲得
2000-2001シーズン、18シーズンぶりのスクデット獲得にひた走っていたローマで、中田はベンチを温めることが多かった。チームには「ローマの王子」こと、フランチェスコ・トッティという絶対的な司令塔が存在していたことと、EUの外国人枠問題(EU所属国以外の選手は、1試合に出場できるのは3人までだった)の影響があったからである。
だが、2001年5月6日のユヴェントスとの天王山では、途中出場から優勝を大きく手繰り寄せる貴重な同点ゴールを挙げるなど、きっちりと結果を出していた中田は、カペッロ監督にとって「なくてはならない選手」だった。
この頃、地元開催のワールドカップを翌年に控えた日本では、そのプレ大会となるコンフェデレーションズカップが間近に迫っていた。当然、日本の司令塔である中田も招集された。ローマ側は中田の派遣を渋ったが、「グループリーグ終了まで」という条件で中田の帰国を認めさせたのだった。
日本はグループリーグでカナダ、カメルーンを破り、ブラジルにも引き分けて1位で決勝トーナメントに進出。急遽、中田は準決勝のオーストラリア戦にも出場し、日本をFIFA主催の世界大会(年代別の大会は除く)で初の決勝進出に導くゴールを挙げている。
しかし、この快挙に日本中が湧き立つ一方で中田は悩んでいた。日本に残りフランスとの決勝戦に出場するべきか、イタリアに戻ってスクデット獲得の瞬間に居合わせるべきか。
そして中田は「日本人として初めてセリエA優勝の瞬間を、グラウンドで迎えるチャンスを選びましたが、日本サッカーの未来にとって、大切な何かを得てくるつもりです(週刊サッカーマガジン/2001年6月27日号)」と、日本サッカー界に「大切な何か」をもたらすためにローマへ戻るという決断を下したのだった。
結果、日本はフランスに敗れて準優勝となり、ローマに戻った中田は試合に出場することなく、チームもナポリに引き分けたために優勝は次節以降に持ち越された。そのため、中田の選択に対しては賛否両論が噴出したが、それから1週間後の6月17日。ローマはパルマを破り、チームにとっては18年ぶり、中田にとってはキャリア初のリーグ制覇という栄冠を手にした。
日本人、そしてアジア人にとっては初のスクデット制覇に貢献した中田の名は、歴史に刻まれることになった。
 
決勝ゴールを挙げ、珍しく大きなガッツポーズをする中田
雨中で行われたコンフェデレーションズカップ準決勝のオーストラリア戦。決勝ゴールを挙げ、珍しく大きなガッツポーズをする中田
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ローマとしては18年ぶり、そして日本人として初のスクデット獲得を果たした中田英寿
ローマとしては18年ぶり、そして日本人として初のスクデット獲得を果たした。試合終了後、興奮したサポータから逃げようとする中田
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パルマに移籍
ローマでプロ選手となって初めてのリーグ制覇を達成した中田だったが、在籍1シーズン半でリーグ戦出場数は30試合と、到底満足できるような数字ではなかった。そのため、試合に出場できることを重要視する中田は移籍を考え始める。
そしてスクデット獲得から約1ヵ月後の2001年7月6日、中田はACパルマ(現・パルマFC)への移籍を発表した。600億リラ(約33億円/推定)という移籍金、与えられた背番号はエースナンバーの10であったことが、中田に対する期待の大きさを物語っていた。
移籍発表記者会見の席で、中田は「ローマでの僕は、ピッチに入れず苦しい時期を過ごした。いま僕はプレーしたいという大きな意欲に満ちている。いい働きを見せ、常にプレーすることができるように祈っている(週刊サッカーマガジン/2001年7月25日号)」と、自身の活躍を誓った。
パルマは1995年、1999年にUEFAカップを制するなど、1990年代に入ってから急成長を遂げたクラブだった。本拠地も、首都ローマとは違い、緑が豊かで静かな街であったため、ビッグクラブ特有のプレッシャーもなく、中田にとっては好条件が揃っていた。
だが、2001-2002シーズンのパルマは10位と低迷し、一時はセリエB降格も危ぶまれるほどだった。中田も、前シーズンよりは出場機会を増やした(リーグ戦24試合出場)が、シーズン終盤は途中出場が多く、再び移籍がささやかれていた。
それでも中田はパルマに残留し、2002年5月にはイタリア国内のカップ戦であるコッパ・イタリアで決勝進出に貢献。ユヴェントスとの決勝戦では、第1戦で中田は1ゴールを挙げている。この試合は1対2で敗れたものの、2戦目はパルマが1対0で勝利。トータル2対2となったが、初戦で中田が決めたアウェイゴールにより、パルマが優勝を果たし、苦しんだシーズンを栄光で締めくくることができたのだった。
 
出場機会を求めてパルマに移籍。背番号は慣れ親しんだ7番ではなく、10番を与えられた
出場機会を求めてパルマに移籍。背番号は慣れ親しんだ7番ではなく、10番を与えられた
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苦しんだシーズンだったが、コッパ・イタリアの優勝に大きく貢献した中田英寿
苦しんだシーズンだったが、コッパ・イタリアの優勝に大きく貢献した。写真右から2番目が中田
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2002年
日韓W杯に出場
セリエA4年目のシーズンを終えた中田は、日韓ワールドカップに出場するために、休むまもなく日本に帰国した。
「中田のキャリアの上で最も重要な大会」として位置づけられたこの大会、中田には技術的、精神的にチームの大黒柱としての活躍が期待された。その期待に応え、中田はチームを引っ張っていく。ベルギー戦、ロシア戦ともにフル出場で、ワールドカップ史上初の勝ち点獲得に大きく貢献。3試合目のチュニジア戦では自身初のワールドカップゴールを決め、チームを1位で決勝トーナメントに導いた。
この決勝トーナメント進出に、「開催国として最低限の目標、使命を果たせたので、これからの試合は楽しんでプレイしたい(Sportiva/2006年6月号)」と語っていた中田だったが、決勝トーナメント1回戦のトルコ戦は不完全燃焼のまま敗れてしまう。試合後、中田はサバサバとした表情で大会を去っていった。
 
グループリーグ第3戦のチュニジア戦では自身初の得点を決める中田英寿
日本代表の顔として臨んだ2度目のW杯。グループリーグ第3戦のチュニジア戦では自身初の得点を決める
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ボローニャにレンタル移籍
ワールドカップを終え、短いオフを挟んだ中田はセリエA2002-2003シーズンに臨むこととなった。
チェザーレ・プランデッリ新監督のもと、中田は中盤の右サイド、守備的な位置でのプレイを要求された。慣れないポジションだったが、その豊富な運動量でチームに活力を与え、献身的なプレイをこなしていた。だが、あくまでも中盤で自由に動くことを望んでいた中田は、本来とは異なるポジションでのプレイに、徐々に不満を募らせていった。
このシーズンは31試合に出場して4得点と、数字だけを見ればセリエA1年目のシーズン以来の成績だった。だが、シーズン終盤はフル出場の数は激減し、中田のセリエA5シーズン目は暗雲と共に幕を閉じることになった。
2003-2004シーズンに入っても、試合に出る時間よりもベンチを温めている時間の方が長いという状態が続いていた。そのため、冬の移籍市場が開かれる頃に、中田は自分を必要としてくれるチームを探し始めた。そして、そんな彼に救いの手を差し伸べたのはセリエAの古豪、ボローニャFCだった。
実はボローニャは、これまでに何度も中田獲得のオファーを出していた。さらに、当時監督を務めていたカルロ・マッツォーネは1999-2000シーズンにペルージャの監督を務めており、中田の才能を高く評価していた。中田にとっても、マッツォーネ監督は尊敬する恩師であり、このオファーは願ったり叶ったりだった。
そして2004年1月3日、中田はボローニャにレンタル移籍をすることになった。
移籍当時、ボローニャはセリエA14位と低迷しており、中田は救世主的な役割を期待されていた。移籍発表から8日後に迎えたセリエA第16節ボローニャ対レッチェで、中田はボローニャでのデビューを果たした。この試合にボランチとして出場して決勝ゴールをアシストした中田は、すぐさまチームメイト、サポーターの信頼を獲得した。
このシーズン、16試合連続で先発出場を果たすなど、中田は完全にチームの中心となった。ボローニャでの最終的な成績は17試合に出場して2得点。降格の危機にあったボローニャを救う働きを見せ、その輝きを取り戻したのだった。
 
尊敬するカルロ・マッツォーネ監督に誘われてボローニャに入団した中田英寿
尊敬するカルロ・マッツォーネ監督に誘われてボローニャに入団
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ボローニャ入団後、水を得た魚のように復活し、チームのセリエA残留に貢献した中田英寿
ボローニャ入団後、水を得た魚のように復活した中田。チームのセリエA残留に貢献した
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2004年
フィオレンティーナに完全移籍
復活を果たした中田は、2004-2005シーズンもボローニャでプレイすることを望み、チームも中田を必要としていた。
だが、中田の所有権を持つパルマと金銭面で折り合わず、ボローニャは中田の獲得に失敗してしまった。中田の復活に一役買ったマッツォーネ監督は、この獲得失敗に「我々は、一人の偉大なジョカトーレ(選手)を失った。ヒデはチームの多くの問題を解決できるプレーヤーだったからね(カルチョ2002/2004年9月号)」というコメントを残したほどだった。
その頃、中田のもとにはフィオレンティーナからもオファーが届いていた。2002年に親会社の経営不振の影響でセリエC2(4部に相当)に降格したフィオレンティーナは、わずか2年でセリエAに這い上がっていた。かつての名門としてなんとしてもセリエAに定着したかったフィオレンティーナは、チームの核となるべく選手を探していた。そして、白羽の矢が立ったのが中田だった。
中田にとっても、どん底から這い上がったチームでプレイすることは、新たな戦いを挑むためにも刺激的であり、常々「好きな街」と語っていたフィレンツェが本拠地だということも魅力的だった。そしてこの移籍話はとんとん拍子に進み、2004年7月18日、正式に中田のフィオレンティーナ入団が発表された。移籍金は250万ユーロ(約3億2500万円)、年棒は180万ユーロ(約2億3000万円)だった(金額はいずれも推定)。
フィオレンティーナのサポーターにも温かく迎えられ、背番号10を与えられた中田には、チーム再生の大きな期待がかけられていた。だが、中田にはひとつの不安があった。それは、この年の4月に発症したグロインペイン症候群(サッカー選手によく起こる病気で、股関節痛、腰痛などを引き起こす)だった。
慢性的な痛みはシーズンが始まってからも続き、本来の力を発揮できないまま、出場機会は徐々に減っていった。そして10月には中田中心の構想を掲げていたエミリアーノ・モンドニコ監督が成績不振のために解任。
フィオレンティーナは、最終的には16位でセリエAに残留したものの、中田はまたも苦境に立たされることになった。
 
フィオレンティーナに移籍した中田英寿。レッジーナの中村俊輔との日本人対決は注目を集めた
フィオレンティーナに移籍。レッジーナの中村俊輔との日本人対決は注目を集めた
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大きな期待をかけられて移籍したが、シーズン途中からはベンチを温めることが多くなっていった中田英寿
大きな期待をかけられて移籍したが、シーズン途中からはベンチを温めることが多くなっていった
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2005年
W杯ドイツ大会アジア最終予選に出場
中田がイタリアで不振と復活を繰り返している間、日本代表はアジアカップを制覇し、ドイツワールドカップアジア一次予選も突破していた。こうした流れの中で、中田不要論が囁かれ始めた。
しかし、アジア最終予選2戦目のイラン戦で、中田は約1年ぶりに代表に召集された。所属するフィオレンティーナで出場機会が減っていたため、マスコミなどでは試合勘を不安視されたりもした。だが、ジーコ監督(当時)は、数々の修羅場をくぐってきた中田の経験が必要だと判断したためだった。
イランには敗れたものの、3月30日、6月3日のバーレーン戦にボランチとして出場した中田は、イタリアで培ってきたフィジカルの強さを発揮してチームを牽引した。勝てばワールドカップ出場が決まる北朝鮮戦には累積警告のために出場できなかったが、日本にとって3度目のワールドカップ出場に、これまでとは違ったポジションで貢献した。
だが、北朝鮮との試合から一夜明けて行われた記者会見では、「今の日本代表には本大会で勝ち抜くだけの力はないと思う(当時報道)」とコメントしている。つまり、「出場を決めただけでは満足してはいけない。これからがワールドカップだ」ということであり、高校時代から世界を相手に戦ってきた中田だからこそ発することができた言葉だった。
     
 
戦いの場をイングランドに移す
2005-2006シーズンに入る直前の6月、フィオレンティーナはプランデッリを新監督として招いた。パルマ時代に確執が伝えられた監督の就任により、中田の移籍は確実となった。
そして2005年8月、中田は移籍を発表した。今度の移籍先はセリエAではなく、イングランド・プレミアリーグのボルトン・ワンダラーズだった。
記者会見では流暢な英語で、「この数年間、ずっとプレミアシップでプレーしたいと希望していました。プレミアは世界最高のリーグのひとつで、タフなリーグです。でも僕はイングランドと同じようにとてもタフなイタリアで、7年間の経験があり、すでにイングランでプレーする準備はできています。ただやるだけです(Number/2005年9月22日号)」と、強い決意を語った。
だが、新天地でも中田は出場機会に恵まれなかった。それでも、10月23日のウエスト・ブロムウィッチ戦ではフル出場を果たし、プレミアリーグ初得点を決める。決して腐ることなく、いつ訪れるかわからない出場機会に備えて、中田はコンディションを整えていった。それは、3度目のワールドカップが近づいてるためでもあった。
このシーズン、中田は21試合に出場し1得点を記録。チームは8位となった。
 
7シーズンを過ごしたイタリアからイングランドに移籍した中田英寿
7シーズンを過ごしたイタリアからイングランドに移籍。環境を変えて復活を目指したが……
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3度目のW杯に出場
日本、そして中田にとって3度目のワールドカップがやってきた。
オーストラリア、クロアチア、ブラジルと同組に入った日本の評価は芳しいものではなく、グループリーグ最下位に終わるという予想も少なくなかった。
ワールドカップ出場決定後に「このままでは本大会は勝ち抜けない」とコメントした中田は、ワールドカップを直前に控えてもやはり、「ワールドカップで戦う雰囲気ができていない(マルタ戦後の報道)」、「走らないとサッカーにならない(同)」と、日本代表に警鐘を鳴らし続けていた。
期待よりも不安がふくれていくなかで、オーストラリアとの初戦を迎えた。
そして、中田の不安は的中する。この試合で、悪夢のような逆転負けを喫すると、なんとしても勝たなくてはならなかったクロアチア戦は0対0の引き分けに終わる。
わずかに決勝トーナメント進出の可能性を残したブラジルとの最終戦も1対4で惨敗。この試合後、中田はピッチの上に大の字になり、10分近く起き上がれなかった。虚空を見つめるその目には光るものがあった。
「最大限、力を発揮できればこんな結果にはならなかった(当時報道)」と、試合後に語った中田の表情は悔しさに満ち溢れていた。
 
自身3度目のW杯。クロアチア戦でPKを止めた川口能活と抱き合う中田英寿
自身3度目のW杯。クロアチア戦でPKを止めた川口能活と抱き合う姿からは勝利への意思が感じられた
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突然の引退発表
日本の敗退から11日後の7月3日、中田は自身の公式サイトで突然の引退発表をした。
これまで日本サッカー界を牽引し、世界に挑戦を続けてきた中田の突然の発表は、周囲に衝撃を与え、「本当に大きな損失だ。中田を超える選手を育てることが日本サッカー界に突きつけられたテーマだ(日本サッカー協会最高顧問の長沼健氏/当時報道)」、「本当に引退するのか、信じられないですね。まだまだ戦えるし、そのことは今回のワールドカップでも証明したと思う。もっと彼のプレイを見たい(98年フランスワールドカップ日本代表・井原正巳氏)」などのコメントが寄せられていた。
その一方で、プロ入り直後から「サッカーしか知らない人間にはなりたくない」と語っていた中田にとっては、彼らしい引き際だという意見も多かった。
この引退によって、日本サッカー界は中田抜きで次へ進んでいかなくてはならなくなった。中田の今後は、米国に渡って大学進学、デザイナー、実業家への転進などの憶測が流れているが、まだ定かではない。
 
 
中田英寿
 
文・データ:久我智也/IACT SPORTS
構成:西原中也/IACT SPORTS

*参考文献
『中田英寿〜日本をフランスへ導いた男〜』
高部務/ラインブックス
『中田語録』
文藝春秋
『決戦前夜』
金子達仁/新潮社
 
AI MIYAZATO's RECORD & MEMORY
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植木繁晴「いつか飯でも食べながら」
SCENE:THE LAST PASS FOR JAPAN.
特集:セルジオ越後さんインタビュー
特集:中田引退を100人に聞く
記録と記憶〜中田英寿、29年の歩み
“ナカタ”お取り寄せ!中田を知るための本
2006年6月12日、カイザースラウンテルン
超人関係
 
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